『Moondance』で味わう、夜更けの一杯
アーティスト紹介
ヴァン・モリソンは北アイルランド・ベルファスト出身のシンガー/ソングライター。60年代にはガレージロック・バンドThemで「Gloria」を放ち、ソロでは「Astral Weeks」(1968年)でフォーク、ジャズ、ケルトの要素を溶け合わせた独自の世界を切り開きました。70年代に入ると彼はより温度のあるR&Bやソウルの体温を帯びはじめ、歌の芯にジャズのしなやかさ、フォークの素朴さ、ゴスペルの高揚を同居させていきます。しゃがれ気味で粒立ちのある声が最大の楽器で、メロディの端々にスキャットや装飾音を差し込みながら、ふいにリズムの背中を押してくれるあの感じ。時代はポスト・サイケデリックの余韻が残る1970年前後。ロックが内省と高揚の間で揺れていた頃に、彼は「肩肘張らずに深呼吸できる、けれど心は踊る」居心地を、アナログのあたたかさとともに形にしました。築50年の当店の空気ともよく似ていて、レコード棚の木の匂い、コーヒーの香りに、ヴァンの声がふっと混ざっていく瞬間がたまりません。
取り上げる楽曲と収録アルバムの紹介
今日の一曲は、ヴァン・モリソンの「Moondance」。同名アルバム『Moondance』(1970年、Warner Bros.)に収められた彼の代表曲です。69年に録音され、翌年に世へ出たこの曲は、ミディアム・テンポのスウィングが心地よく、ウォーキング・ベースにブラシがさりげなく寄り添い、ピアノが軽やかにコードを散らし、木管(フルートやサックス)が月光のような光沢をそっと添えます。ジャズのクラブで鳴っていても違和感のない洗練がありつつ、鼻歌で追いかけられるキャッチーさもある。歌詞は、秋の夜気や月明かり、誰かと踊る親密な時間をやわらかく描きます。大きく叫ぶのではなく、耳元で話しかける声量で、聴き手をダンスフロアへエスコートしてくれるタイプ。レコードで針を落とすと、最初の数秒の微かなノイズが消える頃には、もう部屋の空気が一段と滑らかになったように感じられます。テーブルに置いたカップの表面に、音の波紋が静かに広がっていくような、あの感覚。
なぜその曲がコーヒーとマッチするのか。
「Moondance」のスウィングは、ハンドドリップの所作とテンポがよく似ています。お湯を細く落として、粉がふくらみ、香りが立ちのぼる。その一連の動きと、ベースの歩幅、ブラシの擦れ、ピアノの合いの手が不思議とシンクロして、抽出のリズムが安定してくる。だからこの曲をかけると、淹れる手元が丁寧になり、飲むペースも自然とゆっくりに。中煎りのエチオピアならオレンジや花の芳香が立って、曲の軽快さと会話するし、夜更けに飲むなら深煎りのグアテマラやブラジルでナッツやカカオの丸みを足すのもいい。ミルクを少し落としてカフェオレにすると、サックスの艶やかな鳴りとカップのクリーミーさがぴたりと重なります。
シチュエーション別に言えば、少し疲れた平日の夜、明日の予定を確認しながら一息つく時間に最高です。照明を気持ち落として、窓の外に月が見えたなら、なおよし。耳に刺さらない音作りだから、集中したい在宅ワークのBGMにも向きますし、休日の午前、ゆるやかに部屋を整えるときにも邪魔をしない。個人的には、雨の午後におすすめ。しっとり湿った空気の中、レコードのわずかなチリつきと、深煎りのオイル感、そしてヴァンのちょっと掠れた声が混じり合うと、時間が丸くなって転がっていくように感じます。悲しいときにも寄り添ってくれます。大仰に励まさず、「大丈夫、ここに座って、温かいのを一杯どう?」と、カウンター越しに微笑むみたいな優しさがあるのです。
「Moondance」は、派手なクライマックスで感情を煽るタイプではないのに、カップの底が見えてもなお余韻が続く曲。飲み終えてからも鼻腔に残るコーヒーの甘苦さのように、心のどこかに温度を残します。レトロな当店の空間でかけると、木製スピーカーの柔らかい鳴りと相まって、まるで月明かりが店内に射し込んだみたいに静かな明るさが生まれる。この曲を聴いていると、思わず深煎りの一杯をゆっくり飲みたくなる…そんな夜があります。忙しない日々の合間に、あなたの部屋でも小さな“ムーンダンス”を。カップを両手で包み、呼吸を整えて、針を落としましょう。今夜のコーヒーは、きっといつもより少しだけおいしく感じられるはずです。


